情報誌

3 月号/ 2013

インタビュー 「水村美苗さん」

13.02.26

ヨコハマ・アートナビ 3 MARCH 2013

ヨコハマ・アートナビ独占インタビュー

 

 作家

水村美苗

Minae MIZUMURA  

 

Profile

東京都生まれ。12歳で家族とともに渡米。エール大学、大学院で仏文学を専攻。1991年、『続明暗』で芸術選奨新人賞、95年、『私小説 from left to right』で野間文芸新人賞、2003年、『本格小説』で読売文学賞、09年、『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』で小林秀雄賞。

 

 

 

 

 

自分の人生から離れて、ただ日本語を楽しみたい

 

小説好きが小説家になるのです

 

 

@いつごろから作家を目指したのですか?

 

いつごろからかといえば、大学に入ったころでしょうか。美術大学に行っても小説ばかり読んでおり、漠然と小説家になりたいという思いを抱くようになりました。でも、「目指す」という言葉を使えるほどはっきりしたものではなく、なんとなく、そして、いつの日にか、という、とりとめもない思いでした。

 

@きっかけは何かありましたか?

 

 きっかけも、ある一つのきっかけがあった、という風なことはありません。漠然と小説家になりたいと思ううちに、いつしか他人にもそのように宣言するようになり、三十歳も越えてアメリカから日本に戻ってきた時には、出版界に縁のあった友人知人の助けもあって、今から思えば驚くほど自然にその道が開けました。

ただ、なぜ小説家になったのかといえば、二つの答えがあるように思います。まずは、ほかにできることが何もなかったということ。この顔では女優さんにもなれない。この体型と運動神経ではバレリーナにもなれない。この声量ではオペラ歌手にもなれない。当時のごくふつうの女の子が憧れるようなものになれないのは、大人になる前にわかりました。大学を終え、大学院を何年か続けるうちに、さらに若さを失ってゆき、さらにいろいろな可能性が消えていくのを感じました。ところが、小説家なら、誰にもなれるうえ、何歳になってもなれる。そのような消去法により、小説家になったということがあります。

 次に――これは、より正しい答えだと思いますが、小さい時から小説を読むのが、「三度の飯を食べるより」好きだったということがあります。人は面白い経験をしたからといって小説を書くのではない。たくさんの本を読んできたから小説を書くようになるのです。わたしのように小説ばかり読んできた人間が小説家になるというのは、ある意味であたりまえのことだと思います。大佛次郎も、「丸善に払う為に私は原稿を書き始めたのである」、と書いているそうですが、やはり小説好きが小説家になった例ですね。

 

 

読者とのつながりを確認できました

 

 

@「第39回 大佛次郎賞」受賞おめでとうございます。

 

ありがとうございます。ものを書くというのは長い時間を要するものです。その長い時間を確保するため、私は馬鹿のように世間を狭くして生きています。他の作家とのおつき合いもありません。そのうえ、十二歳からアメリカに行き日本で育たなかったので、日本で孤立しているという気持をいつももっています。 それが、日本語で書くことを通じて、日本で居場所を得ることができ、日本の読者と通じていることが確認される。このような賞をいただくことによって、そのつながりが、いっそう深く確認されるのが、もっとも大きな喜びです。

 

@今回の受賞は、 これからの活動にどのような意味をもちますか?

 

 この作品は、いまだ心のなかで整理がついておらず、十分に納得できた作品ではありません。自分の中に渦巻いていた積年の思いと、新聞小説として、多くの読者にとって面白くあらねばという課題とに、うまく折り合いをつけられないままでした。芸術の評価は難しいもので、文学賞というのは、優れた作品がもらえるとは限りません。運というものにも大きく左右されます。今回は、頂くべくして頂けた賞だとは思えず、ありがたいと思うと同時に、運が良すぎたような気がしています。残された年月はあまりありませんが、これから先、もっとよい作品を残すことができればと願うのみです。

 

@水村さんにとって、「大佛次郎」はどのような作家ですか?

 

日本人ならば、漱石、鴎外、一葉、谷崎などは、小説に興味のある人なら、人生のある時期には、絶対に読むことになる作家だといえるでしょう。でも、そのような作家は例外であり、そのほかの作家は、ご縁があったかないか――彼らの本が家にあったか、彼らを好きな先生や友達と出会ったか――によって、ちがってくると思います。私にとって、大佛次郎は、今回「大佛次郎賞」をいただくまで、縁の浅かった作家だと白状せざるをえません。『鞍馬天狗』などは、今回、部分的に初めて読んだぐらいです。鎌倉の景観を守ろうとした知識人ということで、まずはその名を知り、親しみを覚えていました。

大佛次郎の作品は、私のものとちがって、童話から歌舞伎までたいへん幅の広いものです。ただ、すべてを貫いているものがあるように思います。一つは、面白いものを書こうという小説家としての心構え。二つは、西洋の言葉をよく読んできた人間の視点。その二つが伝わってきます。後者に関しては、『鞍馬天狗』のようないわゆる娯楽作品でも、そうだと思います。さきほどの「丸善に払う為に私は原稿を書き始めたのである」という言葉でもわかりますが、当時の「丸善」といえば、主に洋書を売っていた本屋ですから、洋書を乱読していたということですね。作品の構築力だけでなく、日本を見る目、日本という国民国家を憂える目が、西洋語を通した目だという印象を受けます。国民国家が普遍的な理念に立脚することができるか、品位のある国民国家とはどういうものか、そういうことを考えているのが面白いですね。

 

 

わかりやすいもの、面白いものを書きたい

 

 

@海外での暮らしが長いですが、 作品を書くときに日本語で考えて書いていますか?それとも英語で考えて書くのでしょうか?

 

傑作な質問です!でも、たまに訊かれます。もちろん日本語の作品を書くときには日本語で考えています。私が日本を出たのは十三歳近くです。人にもよるでしょうが、母国語が出来上がるのは十歳くらいではないでしょうか。私も十歳くらいから急によく本を読むようになり、その後、十一、十二歳とたくさん本を読んだ後に日本を離れた。ということはしっかりと日本語が母国語となっていたということです。しかも、アメリカに行った途端にジョン万次郎のように日本語と切れてしまったわけでもありませんし。人種の差もあり、アメリカになじめず、日本語の本ばかりを読み、日本語で話そうとばかりしていていました。二十年もアメリカにいましたが、英語は最後の最後まで外国語でした。

ただ、英語でメールを書いたり、論文を書いたりするとき、私の本の英訳を直したりするときは別です。そういうときは自然に英語で考えて書きます。でも、いつも、なんて不自由なんだろうと思いながら書いています。

 

@ 作品を書くとき、読者に対して最も意識しているのはどのようなことでしょうか?

 

まずは、わかりやすい文章、頭にすっと入ってくる言葉で書くということです。谷崎潤一郎が『文章読本』でいっていることと同じです。

次に、面白いものを書きたいと思っています。誰にとっても面白いものを書きたいとは思いますが、それはなかなかむずかしい。ですから、文学がほんとうに好きなに人たちに面白いと思ってもらえれば、大いに満足です。

最後に、どこでどんな読者に読まれても、書いた文章が浮ついたものに見えないよう努力しています。ものを書いていて最初に出てくる言葉は、おおむね、浅い言葉です。自分が読者であったなら、それを書いた作家を軽んじてしまうような言葉です。ですから私は一度文章を書いた後は、それが少しでも浮ついたものにならないよう、そのあたりを、最も意識しています。

 英国人の誰かが書いた言葉で、印象に残っている言葉があります。病で死に瀕している人が偶然その文章に触れたとしても、あるいはこれから銃殺される人が偶然その文章に触れたとしても、そのような人にとって軽んじられてはいけない。たとえ、言葉遊びであっても、というような内容です。下らないものを切り捨てるということが、最も重要なことではないでしょうか。

 

@今回の受賞作『母の遺産-新聞小説』はどのような人に読んでもらいたいですか?

 

作家は欲張りなので、どのような作家であろうと、なるべく多くの人に読んでもらいたい、というのが本音だと思います。ただこの作品は、老親の介護をしつつ、その親に死んで欲しいと思っている人間を主人公としたものです。もちろん自分の経験をもとにしたものでもあります。いろいろな読者から反応がありましたが、身に余ると思ったのは、私などとは比べものにならない大変な介護経験をした人たち、また、現在している人たちが、この作品で救われたと言って下さったことです。自分の親の死を願ってもかまわないんだ、とようやく思うことができるようになったと。また、面と向かって、救われた、と言われたこともあります。そう考えるうちに、多くの人に読んでもらいたいけれど、とりわけ、今、老親を抱えて苦労している人たちに読んでもらい、その人たちの心を少しでも軽くできればと思うようになりました。そういう人たちは、私の小説を初めて読む人たちでもあります。文学の効用というのは、ふだんは意識しません。でも、結果的にそのような効用をもったとしたら嬉しく思います。

 

日本語を読むのが楽しいと思ってもらえれば

 

@これから、どのような作品を書き、読者にどんなメッセージを伝えていきたいと考えていますか?

 

今は自分の作品の英訳の手直しに時間も気力も取られ、次の作品についてはまだ具体的に考えていません。翻訳の難しさに日々向き合っているので、果たして翻訳が可能な小説とはどのようなものか、という風なことを考えたりはしますが。ともかくしばらく自分の人生から離れてみたい。無駄なく、物語として完結している作品を一つか二つ書きたい。そしてその後、枯れ果てた、構造もなにもない、単にそこに投げ出したような、断片的な思い出話を書いてみたい。老いたらそんなことができるのが、日本語の楽しさですね。

 私の場合、読者に伝えたいメッセージというものはありません。小説を読む。文章を読む。日本語を読む。そういったことが、こんなにも楽しいのか。読んだ後、まずはそう思ってもらえることを願っています。

 

 

@ “横浜”との関わりを教えてください。

 

「赤い靴はいてた女の子、異人さんにつれられて行っちゃった、横浜の埠頭(はとば)から、汽船(ふね)に乗って」という童謡。それが横浜との最初の出会いかもしれません。でも「イージンサン」がなぜ女の子を連れていってしまうのか、なぜ女の子が「青い目」になってしまうのか、何がなんだかさっぱりわかりませんでした。詩情を解すこともできなかったし、歴史も知らなかった。

私は十二歳の時に両親とともにアメリカに移り住みましたが、日本では東京都世田谷区の千歳船橋に住んでいました。ですから、当時は横浜なんて自分とは関係のない遠い遠い所だと決めつけていました。実は母が生涯憧れ続けた親戚の家が横浜にあり、そこへ始終顔を出しており、横浜とは深い縁があったのですが、知恵のない子供でしたので、よくわからなかったのです。

その家が「白楽」という駅を降りたところにあったのが、いけなかったのかもしれません。千歳船橋から小田急線で下北沢に出て、そこから井の頭線で渋谷に出て、さらに東横線で延々と終点近くまで行かねばならない。子供は自分を中心に考えますから、なぜこんなに遠くに住んでいるのかが、まったく不可解でした。その家の家長が、もと商船の船長さんで、それで横浜のすぐ裏手――横浜市開港記念会館からは目と鼻の先とも言えるところに居を構えていたのですが、そんなことがわかったのは、大人になってからでした。

横浜の親戚の家に対する母の憧れの強さが、母の時代の人間特有の、西洋に対する憧れの強さと重なっていたということ。そのようなことは、あたかも薄紙を剥ぐようにゆっくりとわかっていったことです。でも、わかり始めたら、次から次へと、自分の過去の断片的な記憶が意味をもつようになりました。横浜がまさに近代の日本における西洋の窓口であったという当然のことを理解していった過程は、日本の近代そのものを理解していった過程でした。