情報誌

10 月号/ 2012

インタビュー「秋吉敏子さん」

12.10.01

 

ジャズ・ピアニスト
秋吉敏子
Toshiko AKIYOSHI

 

Profile

中国、旧満州生まれ。1956年渡米、バークリー音楽院(現、音楽大学)に留学、1959年卒業。1973年、アキヨシ-タバキン・ビッグバンド結成。1983年、トシコ・アキヨシ・ジャズ・オーケストラ結成。日本人初の全米芸術教会「ジャズマスター」選出、「国際JAZZ殿堂」入り、グラミー賞にノミネート14回など、日本が世界に誇るジャズピアニスト。

 

 

イベント情報

横濱 JAZZ PROMENADE 2012 10月6・7日 (秋吉氏の出演は10月7日のみ)
http//jazzpro.jp

 

ジャズを学んだ街、横浜に恩返ししたいです。

 

中国は故郷、アメリカは仕事場、日本は私の国

 

■中国は故郷と感じていらっしゃいますか?

 

私は中国、旧満州国南部、現在は中国の遼寧省の遼陽という街に生まれました。歴史のある古都です。15年も過ごした故郷の中国でコンサートをしたいと願っていたのですが、二年前に念願が叶いました。嬉しかったですね。北京でのコンサートでは、メンバーのトロンボーン奏者が偶然にも上海にいたことがあって北京語を話せたので、うまく客席とコミュニケーションをとることもできてよかったです。私は訪ねた国の曲を一曲は必ず演奏することにしてるんですが、このときも中国の事情に詳しい人から皆が知っている昔の曲を教えてもらい、ジャズにアレンジして演奏しました。一気に親近感を持ってもらえたと思います。この公演が叶う以前にNHKの番組で小学生のときにピアノを習った楊先生に再会することができて感無量だったのですが、このコンサートの機会にはもう私のことを知る方とは会うことはなかったですね。でも故郷の中国で演奏できたことはとても嬉しいことでした。

 

 

■そして引き揚げで初めて日本に来られたのですね?

秋吉さんにとって、日本はどんな場所ですか?

 

それは私の血ですよね。終戦後、引き揚げて別府にたどり着き、進駐軍向けのダンスホールに雇われるところから、私のジャズ・ピアニストの歴史が始まるのですから、ジャズで恩返ししたい気持ちはありますね。

 

 

■横浜とはどのような関わりがありますか?

 

18歳で単身上京し、銀座のナイトクラブで演奏したり、初めて本場アメリカのジャズ奏者の演奏を聞き、オスカー・ピーターソンと出会ったりという刺激のある時を過ごしていましたが、1954年頃に横浜の小さな船員向けクラブ「ポート・ホール」で演奏する仕事をもらいました。壁側にバーがあって反対側にテーブル席が少し、狭いダンスフロアがあるだけのお店でしたが、どんな曲でも自由に演奏させてもらえたのがありがたく、私にとっては最高の職場でした。それに伊勢佐木町の近くに米陸軍軍楽隊が駐留しており、アメリカから来たプレイヤーと一緒にプレイする機会もありました。当時はジャズの曲の楽譜などなかったので、連中に直接弾いてもらって覚えたものでした。

 

 

■伝説の店「ちぐさ」に通われていたのだとか?

 

クラブでの演奏の仕事が終わった後、毎晩のように通ったのが野毛にあった「ちぐさ」です。5、6人でいっぱいになるようなお店の奥に、おやじさんの吉田さんは腰掛けていて、後ろの壁いっぱいに並んでいるレコードから選んでかけてくれました。一回聞いただけでは覚えられないから、吉田さんに「そこもう一度かけて下さい」と頼むと嫌な顔せずにかけてくださった。楽譜などなく、レコードもそうそうは買えなかった当時の私にとって、非常に大事な勉強の場所でした。「ちぐさ」が昨年、復活したのですって?ぜひ行ってみたいです。

 

 

■アメリカへ渡られたときの意気込みはどのようなものだったのですか?

 

当時は、とにかくアメリカに行きたい、行かなくては、と思ったんです。いつもレコードで聴いている、そのプレイヤー達と一緒に演奏してみたい、自分ももっと上手くなれるからと思って。日本で一、二のジャズ・ピアニストと言われて、小さな井戸の中の蛙でいるのは落ち着かないことでしたから。それでもう、行きたい行きたいと願った挙げ句に、みなさんご存知のように、機会があってバークリー音楽院に入学が許可されて行けたわけなんです。良い時にアメリカに行けたと思います。あの頃はジャズ・クラブにそんなに大勢のお客が来ない時代だったせいか、出演するグループの曲さえ知っていれば、ステージに招かれて一緒に演奏させてもらうことができたんです。昼間は学校に通い、夜は木曜日から日曜日までの4日間、学校から遠くない「ストーリーヴィル」というジャズ・クラブで演奏することになったのですが、その時も有名なグループが一週間か二週間、出演している期間中、ほとんどのグループが一緒に演奏させてくれました。

 

 

自分のための演奏を聴いてもらえる幸せ

 

■それからのご活躍は目覚ましいのですが、60年を越える年月を一線のジャズ・プレイヤーとして過ごして来られて、達成感はありますか?

 

ジャズの歴史に少しは何かを残したような気もするし、日本にも何かお返ししたような気もしますが、どうでしょうか?大袈裟な願いかもしれませんが、アメリカと日本のブリッジになれていたらと思います。アメリカはいつまで経っても私の仕事場だし、日本はいつまで経っても私の国ですから。いままでやってきたことが積もって、少しは何かを残せたのだとしたら、嬉しいですね。

自分のために演奏しているところが常にあるんですね。もちろんジャズのことですから、調子が良かったり悪かったり、よく弾けるとともかく自分が気分が良いし、トチっちゃうともう、夜寝られないこともあるわけで、自分のために演奏しているようなところがあります。それを皆さんが聴いてくださる、喜んでくださるということが非常に幸せだと思います。

 

 

■横濱 JAZZ PROMENADE に7度目の出演をされます。

 

1983年の第1回に招いていただいて以来、今度で7度目の出演だそうですね。一回一回、日本のジャズプレイヤーと一緒に演奏できる貴重な機会で、嬉しい経験でした。ジャズを学んだ街に恩返しする気持ちで演奏します。