情報誌

7 月号/ 2012

インタビュー「矢内原美邦さん」

12.06.27

ダンス振付家
矢内原 美邦
Mikuni Yanaihara
    
プロフィール
ダンス・カンパニー「ニブロール」主宰。大学で舞踊学を専攻、在学中にNHK賞、特別賞など数々の賞を受賞。演劇『前向き!タイモン』で岸田戯曲賞受賞。7月〜8月にYCC(ヨコハマ創造都市センター)でダンス新作『see/saw』を行なう。

【イベント情報】
Nibroll『see/saw』(コンテンポラリーダンス)off-Nibroll『a quiet day』(インスタレーション)


 
■期間:7月20日(金)~8月12日(日)
■開場:ヨコハマ創造都市センター(YCC)
■お問合せ
プリコグ 03-3423-8669
http://precog-jp.net/ja/events/2012/07/nibroll-seasaw#ticket-info

 

震災を機に、「記憶」について考えてみます

 

高校の部活で始めたダンス

 

■ダンスを始められたのは何歳の頃ですか。

 

18歳になる少し前です。2つ違いの姉がいるのですが、姉と同じ今治南高校に入学して一年がたちぼーっとしていたら、卒業して大学生になった姉が夏休みに帰省し、自分がいた創作ダンス部が廃れているのを見かねて、「入ってくれ」と言いだしました。運動が苦手で文化部でしか活動したことがなかったので私にはそんな気はまるでなかったのですが、毎日のように姉から「美邦はダンスが好きだ」と暗示をかけられてしまって。それで、しかたなく夏休みが過ぎた9月になって、「内申の評価が上がるらしいよ」、「大学に入るのにいいポイントになるらしいよ」、などと文化部で一緒だった4人の友達を誘って入部したんです。一人で入るのは嫌でしたから。

 

■その後の経歴から考えると意外なきっかけですね。

 

ええ、姉にだまされたようなもので、渋々と始めたんですが、他の子を誘った手前、部長を引き受けざるをえませんでした。愛媛県では全国に先駆けてダンスの県大会を開催するほどにダンスが盛んな土地柄で、今治市もとても熱心だったんです。入部してみたら、もう10月の県大会に向けて、初心者5人だけで作品をつくらなければならない状況に追い込まれました。その上、どういうわけか、愛媛県では名だたる、ダンスに熱心な先生が赴任されてきてダンス部の顧問になられたんです。それで突然に地獄のような毎日になりました。顧問の先生からは、内申書を盾に脅されたので(笑)、仕方なくダンスの特訓をしながら、初めて作品づくりに取り組みました。

 

■初心者たちだけでダンス作品をつくったんですか?

 

ええ、鬼のような顧問が、松山にある私立女子高の強豪ダンス部には負けたくない、と言って、何か題材を考えろというので、愛媛県にちなんだものがいいだろうと知恵を絞っているうちに、祖母が俳句好きだったおかげで、ゆかりのある正岡子規はどうだろうかと思い付きました。

 

■戦略的だったんですね?

 

そうです。ようやく考え付いた作戦でした。ですから、ダンスは私にとって、始めるやいなや、踊るものというよりも、頭を使って「つくる」ものという感覚でした。

 

ダンスは創作するもの

 

■すぐに創作に取り組まれたわけですね?成果はいかがでしたか?

 

それがなんと県大会で優勝を果たしてしまいました。愛媛県代表として、私たち、今治南高校は、例のライバル校とともに、全国大会に出場することになってしまいました。高校生ダンスの初めての全国大会が実施されたんです。いざ、神戸で開催された全国大会に行ってみたら、他の高校はみんな様々な衣装を着けいることにまずびっくりしてしまいました。愛媛県大会では黒いレオタード以外の衣装を着けてはいけないというルールがあって、平等の条件で踊って、厳格に中身を審査しようという規則でしたから。そんなことを知らずに出かけて行った私たちは黒いレオタードに素足。慌てて、本戦にはせめてタイツをと、買いに走りました。

 

■正岡子規の作品で戦ったのですか?

 

新しい作品をつくりました。愛媛県に伝承の鬼と村人との民話を題材に。村の人に部員のみんなで話を聞きにいきました。といってもダンスのための取材ではなくて、高校の進路指導の一環として社会見学のような趣旨で訪ねた経験を思い出して、題材に取り上げようということになったんですね。

 

■常に創作のヒントを見逃さなかったんですね。

 

ずっとダンス作品をつくることばかり考えていなければならなかったので。そうしてつくったのが「ヒトオニ」という作品ですが、これが準優勝してしまったんです。題材のアイデアを褒めてもらえました。優勝したのは九州のダンスの名門女子高でした。私たちはせいぜい黒いタイツ履いた程度の衣装では対等に戦えているはずがないと思っていて、本戦に残った時点で奇跡だと思っていたので、結果発表で最後に名前が呼ばれてNHK賞も同時にいただいて唖然としました。

 

■あわや廃部になりかけていたダンス部が全国大会で準優勝ですか。

 

今治南高校はハンドボール部が強かったので地域を挙げて全国大会へと送りだしていたのですが、ダンス部はすっかり忘れられていましたが、準優勝で全国放送されたら、垂れ幕で迎えてくれて驚きました。校長室に呼ばれてお祝いの言葉をもらいました。

 

■その経験がダンスを目指すきっかけになったんでしょうね?

 

いえ、美術大学に行こうかと思ってデッサンの勉強をすでに始めていたんです。ですからまだ決心はできていませんでした。全国大会で準優勝してその作品をすごく褒めていただけたので、いくつかの大学から推薦の声をかけられたんですが、父が「女の子は大学に行ってもいいけど箱根の山は越えちゃいけない」というワケの分からない規則を立てて反対したので、関西の大学しか受けられませんでした。いくつかの大学の美術科と舞踊科を両方受けて、結局は大阪体育大学が舞踊学科を新設することで奨学金を出すという条件をくださり、両親、特に父が大喜びで賛成してその舞踊学科に進んだんです。

 

■ダンスを勧めたのはお姉さん、舞踊科を勧めたのはお父様、というと、ご家族のご意向が強いんですね。

 

父など最初は文学部を勧めていたくらいなのに、奨学金の話で手のひらを返して舞踊科を勧めました(笑)。当時は舞踊科がある大学は東京に一極集中していたので、90年代初めの、近畿大学に演劇学科ができたり大阪芸術大学にミュージカル科ができ始めた機運に乗ってのことだったのでしょうね。その新設の舞踊学科に入学してみたら、もうひとりの女の子と私の2人だけでした。ダンスのバレエとかモダンとかコンテンポラリーというあらゆる基本的なテクニックを初めて学びました。他にもダンスセラピーや舞踊解剖学や舞踊歴史概論とかいったことも。嫌だったのに行かねばならなかった交換留学のために英語も特訓を受けました。またダンス漬けのスパルタ生活が待っていました。

 

ダンスはコミュニケーション教育という考え方に接して

 

■アメリカへの留学での収穫はありましたか?

 

留学先はノースキャロライナ州のデューク大学でしたが、日本では舞踊学科は体育の分野ですが、アメリカではコミュニケーション教育の範疇として分類されていることが大きな違いでした。今考えると大切なことを学んでいたんだなと思うのですが、当時はいかにサボるかということだけを考えていました。大阪体育大学ではたった2人のために新設した学科だったので、次年度の募集のためのサンプルとして扱われて、まったくサボれなかった上に、部活動でもダンス部に入らなければならなくて朝練、昼練、夜練と毎日あるんですよ。アメリカに行くと、ダンスのクラスの生徒が大勢いるのでサボれるのが嬉しかった。講堂みたいな所でダンスのテクニック・クラスなど2,30人生徒がいるんです。練習のコースの途中にカーテンが懸かっているいるところがあるので、クルクル回りながらカーテンにたどり着くと隠れて休んでいて、また一群がやって来たなと思ったら見つからないように列に戻ってしまうんです。でもついに見つかって怒られました。日本人が1人しかいないので目立つので無理なことでしたね。

 

■やはりサボれませんでしたか。

 

それで、なるべくテクニックのクラスは取らないことにして、楽ができるのがコンポジション(創作)のクラスだと思ったんですよね。それでサボりたいがために、コンポジションのクラスをできるだけたくさんいっぺんに取ってしまいました。そしたらまたずっと作品をつくり続ける羽目になってしまいました。それに一風変わった人たちが多かった。短い留学の期間にまとめて取った創作のクラスは、けれども案外苦痛じゃなくて、楽しくできました。

 

つくることで得た信頼

 

■いろいろな流れでいつもつくることへと導かれたようですね。そして常にそれが成果になっていったんですね。

 

考えてみればそうですね。留学中、夏休みには、大きなダンス・カンパニーのオーディションに受かればダンサーとしてのバイト代を稼げる仕組みなのですが、受かったにもかかわらず最後にひょんなことで落とされ、結果的にまた作品を作るほうのツアーに行くことになりましたし。いろいろな要素が重なってのことなんですが。どういうわけかダンスを踊るほうよりも、つくることのほうに流れていったんでしょう。どうしてもそっちが好きだからという自分の意志というよりも、流れで仕方なく。つくるほうの人がいないからとか、テクニックのすごいダンサーたちと英語でおしゃべりができないとか、いろんな状況が重なって。つくることによって、初めて自分の存在が認められるような状況でした。「こういうのがつくれるんだね」、ということで信頼を取り戻していくという方法しか私にはなかったように思います。

 
■つくる機会に常に恵まれたわけですね。

 

はい。22歳まではそうでした。そのあと大学院に進んだんですが、
日本ブラジル交流協会というところの審査に受かってブラジルに留学することになったんです。ところが、ちょうどその頃に日本人留学生がアマゾンで事故に遭って、日本政府からアマゾンへの禁止令が出てしまった。私は、民族舞踊と現代舞踊の繋がりについての研究という目的で、アマゾンの村に入って民族舞踊を見るためにとブラジルへ行ったんですが、行ったら禁止令のためにサンパウロ大学の小部屋でビデオを見せられて納得ができないくなり、留学期間の途中で帰ってきてしまいました。帰国して、大学院には戻らないで東京映像芸術学院という映像学校に行きました。

 

ダンスを離れた一時

 

 
■それまでのダンス漬けの生活から一変してですか?

 

ダンスはもう飽きちゃったんです。ダンスで食べていくのは大変だし、映画が好きだったという理由で映像を学ぼうかと。東京に来て、1年間バイトをしながら映像学校に通い、映像の制作会社に就職しました。それで映像学校でいっしょだった仲間と自主映画を撮り始めたんです。ちょうど自主制作映画というのがすごく流行り始めた時だったんです。撮り始めて何本か作ったら、お金がないので今回は舞台をしようと、舞台は金が掛からないものだと思っていたらしくて。それで舞台をやることになったんです。24歳くらいですね。
「ダンスをやってたならお前何か作れ」って言われて、それで私がダンスを担当して、他のひとは音楽や映像を担当して、と分担しました。これが「ニブロール」の結成になるんです。

 

ダンスに戻って掴んだこと

 

■ダンスに戻られたわけですね。

 

映像だけでは舞台空間を持たすことができないからということでした。東京・中野にある「アクトレ」という60人ほどのスペースで活動を始めました。めちゃくちゃでした。友人にチケット売っても、初日に間に合わないから「明日また来てね」と帰ってもらったり、翌日にはあふれてしまって外の階段で音楽だけ聞いてく喜んでくれたり。友人に恵まれましたね。

 

■再スタートは最初から満員御礼ですね。

 

「ニブロール」の当時のメンバー5人で「林んちに行こう」っていう作品をつくって、東京と横浜で公演しました。そこで初めて「エノモトアート賞」という賞をもらったんです。そしたら、誰かが欲を出して、「ダンスは海外らしい」と言いだして、フランス・アヴィニョンの演劇祭?に申し込みをしてみたら、テアトル・ダ・プーリーという劇場から返事がきて1カ月公演できることになりました。東京の財団から助成金もいただけました。ですから、みんな旅行気分でフランスに出かけました。時差の計算を間違えて、着いたのは公演当日。お客さんは3人。それでもなんとか初日の舞台をこなしました。その中に新聞記者の人がいて、徐々にお客さんが増えていきました。この経験で「ニブロール」のメンバーが、プロとしてやっていこうという自覚が初めてできたんです。

 

■何が大きかったですか?

 

ダンスって毎日変わるんですね。1カ月間延々に繰り返して踊ったんですが、ダンサーがうまく踊れたと思っても、スタッフのほかのみんながダメだったと言ったり、ダンサーや美術や映像やみんなが良くなかったと落ち込んでもお客さんがとても良かった、と褒めちぎってくれたり。1カ月を乗り切って、この新鮮な経験から、97年に本格的に「ニブロール」を結成したんです。

 

 

身体の可能性を知ることでひろがる可能性

 

■お姉さんの押しつけから長い道のりでしたが、もしその時にダンスに出会っていなかったら、その後ダンスに出会うチャンスはあったと思いますか?

 

いや、なかったでしょうね。映像とかやってたと思うんです。子どものころに身体の可能性みたいなものを見ておくと選択肢は広がりますよね。

 

■ご自身の経験から、学校教育の中でダンスに触れることは意義があるとお思いですか。

 

思いますね。社会とどうコミュニケーションをしていけばいいかという方法が多様化している中で、その一つの方法としてダンスだったり、スポーツだったり、演劇や読書だったりが有効かと思います。直接、人と触れ合うダンスはコミュニケーション教育としてやはりひとつの役目が果たせると思います。ものの考え方を一定方向に定めないという効用がダンスにはあると思うから。例えば、勉強はあまり好きじゃない、出来ない。でも人としゃべることは好きですという子や、誰かを見てあげることが好きですという子のように、子どもは様々な可能性を持っています。その自分の可能性を探るひとつの方法として、例えば、石になったり木になったり、目を閉じて道を歩いてみたりとかをしてみると、他人を感じ、自分を感じることができる。他人とコミュニケーションする自分なりの方法を見つけるチャンスになる。根源的なコミュニケーション能力というものを身に付けることができると思います。

 

子どもにとってのダンスの必要性

 

■今の時代の子どもたちにとって、身体での直接的なコミュニケーションは必要ですか?

 

必要だと思います。都会でも地方都市でも、根本的に家庭の中にあったコミュニケーション自体も崩壊しています。文部科学省の「コミュニケーション教育推進会議及び教育ワーキング」の委員活動や学校の先生達との話し合いを通し考える機会が多くなりました。ダンスという身体での直接的なコミュニケーションは、可能性を広げる機会になると思っています。

 

■今度の公演について教えてください。

 

7月から2ヶ月に渡って『see/saw』と題してのダンス・パフォーマンスを行ないます。震災を機に人々の記憶の仕組みについて考えるようになり、「私達は何を見たのか」「これから何を見て行くのか」「もう何かを見たのだろうか?」を考えてみようと思います。旧第一銀行横浜支店の重厚な建物全体を使い、観客も参加しているような空間にしていきたいので、ぜひ遊びに来てください。